真名の日本巡礼 の要約を紹介します。
日本巡礼マップ
(観)・・・観光記事です。
(考)・・・いろいろな文献などから記録を転記しています。
(ヲ)・・・ヲシテ文献の解読です。
(日)・・・日本書紀中心の記事です。
(古)・・・古事記中心の記事です。
(先)・・・先代旧事本紀中心の記事です。
(国)・・・国学関係の記事です。
(考古)・・考古学から考えます。
(現)・・・現代についての記事です。
50音順です
(観) アマテル様の臍の緒を切った鎌
「三森神社は、天照大神の臍の緒を切った鎌を納めたところというお話」
(観) アマテル様の胞衣の血を洗う
「恵那山の山麓にある「血洗神社」と「血洗池」とに行ってきました。ここは、アマテル様の胞衣を洗ったという、非常に強固な伝承の地なんですね。」
(観) アマテル様の胞衣(ヱナ)を納めた地(一)
「岐阜県と長野県との県境にそびえ立つ恵那山の周りをめぐってきました。このあたりには、はるか神代のむかしに、天照大神の胞衣を納めたという「伝説」があります。」
(観) アマテル様の胞衣(ヱナ)を納めた地(二)
「恵那神社奥宮は山頂にあります。そこには、驚くべきことに、神代の痕跡が残っておりました。」
(ヲ) アマテル様の胞衣にまつわる圧倒的な記述(1)
「ヲシテ文献を読むと、恵那山周りの胞衣にまつわる伝承が、神話ではなく、実際の歴史として書かれていました。」
(ヲ) アマテル様の胞衣にまつわる圧倒的な記述(2)
「いよいよ日本の深層に、少しだけ降りてみましょう . .そこにはアメミヲヤがおられます」
(観) アマテル様の胞衣を護る(1)
「今回は、恵那山東麓にある阿智神社里宮に行ってきました。初夏のまぶしい光の中で、花桃の咲き乱れる日に・・・・」
(観) アマテル様の胞衣を護る(2)
「今回は、阿智神社前宮から僅か数キロの駒場宿にある安布知神社に行ってきました。」
(観) アマテル様の胞衣を護る(3)
「いよいよ阿智神社奥宮です。ここは、思兼(おもいかね)命、天表春(うわはる)命がお鎮まりになっておられる地のようですね。悠久のときを超えて語る・・・現地に行けば、それが感じ取れるはず。」
(考) アマテル様の胞衣を護る(4)
「阿智神社奥宮の地は、思兼命、表春命という神話的人物が、濃厚な実在感をもって迫ってくる場所です。それは当然で、ここはお墓なのですから。 お墓があるのは人間ではないか?」
(ヲ) アマテル様の胞衣を護る(5)
「これまで述べてきたいろいろな疑問が、一気に氷解します。そこにあったのは、我々と同じように悩む、しかし高貴な人々の世界でした。」
(ヲ)(先) アマテル様の胞衣を護る(6)
「アチのカミヤシロからは、神と歴史との本質がかいま見えてくる・・・」
(観) 産着に包まれたアマテル
「今回は、アカヒコ様のオヤシロに行ってきました。天照大神が生まれたときに、産着用の絹糸を作って提供した方です。」
(観) カスヤ様とアサコ様にごあいさつ
「今回は、アマテル様のお妃のお一人であるアサコヒメと、父君のカスヤ様のところに参拝にいってきました。」
(考) カスヤ様とアサコ様にごあいさつ(2)
「古い神社名に誤写があると思われるときに、学者はえてして訓読みを軽視し、漢字に基づいてあれこれ推論します。 しかし、和語に対しては、漢字はあくまでも当て字です。 「訓読みが本質、漢字は現象」と考えるのが妥当です。 加須夜神社、伊呂上神社の各社名、特にその訓読みに残されている和語は、人名と思われるのですが、ヲシテ文献によってのみ説明できました。」
(現) 9.11に遭遇した雷雨
「日本巡礼の第一回は、永田町の山王日枝神社を選びました。訪問日は今日、つまり2005年9月11日です。」
(観) この花よ咲けとシロコの櫻(1)
「今回は、三重県鈴鹿市の白子にある「不断櫻」と「比佐豆知神社」に行ってきました。 ここの櫻は、はるか古代、三つ子の誕生の記憶を留めて咲く・・・・・」
(考) この花よ咲けとシロコの櫻(2)
「植樹と安産との関係は? 本来のご祭神は? 観音寺を大きくした崇敬の念の原動力は? −謎が深まる中、キーワードが現れます。」
(ヲ) この花よ咲けとシロコの櫻(3)
「シロコの櫻は、コノハナサクヤヒメ様が、祈りをこめて植樹されたものでした。」
(ヲ) この花よ咲けとシロコの櫻(4)
「妬まれの讒言により、ニニキネ様の疑いを受けてしまったアシツヒメ様は・・・・・ヲシテ文献の驚くべき緻密さの一端が明らかにされます。」
(ヲ) この花よ咲けとシロコの櫻(5)
「心を閉ざしたアシツヒメ様に向かって、ニニキネ様が送られた使いと便り・・そこにニニキネ様の深き思いを窺うことができました− ヲシテ文献の扉を開くには、ニニキネ様のような心遣いを必要とするようです。」
(ヲ) この花よ咲けとシロコの櫻(6)
「ニニキネ様がアシツヒメ様に送ったウタには、冷暗に閉じた心を溶かす、魔法が込められておりました。」
(ヲ) この花よ咲けとシロコの櫻(7)
「ニニキネ様とアシツヒメ様の愛のストーリーは、一応、完結します。「白子の不断櫻」の記憶は半ば失われつつも、なお現地に痕跡を留めています。」
(日) この花よ咲けとシロコの櫻(8)
「日本書紀では、物語が断片となり、多数の異伝にばらまかれています。品格と感動に欠けているように見えるのは・・・・私だけでしょうか? 」
(日) この花よ咲けとシロコの櫻(9)
「日本書紀の異伝を洗っていきます。 「第二の一書」から。」
(日) この花よ咲けとシロコの櫻(10)
「第三の一書です。 竹刀で臍の緒を切るという大事な伝承が書かれていますが、お話が断片的です」
(日) この花よ咲けとシロコの櫻(11)
「日本書紀・第五の一書です。 これは、大げさで、情愛が感じられません。 長いわりには、独自の伝承が見当たりません。 不自然な脚色が実に強烈です。」
(日) この花よ咲けとシロコの櫻(12)
「日本書紀、第六の一書には、あの和歌がでてきますが、前後の脈絡がないために、和歌が死んでいます。」
(古) この花よ咲けとシロコの櫻(13)
「今回は古事記です。 日本書紀をネタ本にして、適当に作ってみたが、ボロがでているというように見えます。」
(古) この花よ咲けとシロコの櫻(14)
「古事記は、日本書紀を下敷きにして書いたものらしいのですが、リライトの際に墓穴を掘っていることを証明します。」
(古) この花よ咲けとシロコの桜(15)
「古事記と日本書紀とを比較していくと、古事記の記述の奇妙さが浮き彫りになります。」
(ヲ) (考) この花よ咲けとシロコの桜(16)
「ヲシテ文献の記述は破綻がなく、感動が深く、神社、地名との整合も申し分ありません。 日本書紀の記述は、二つのストーリーが錯綜し、神社、地名との照合もできません。 古事記の記述は、日本書紀を下敷きにしたもののようですが、墓穴を掘っています。」
(国) しき嶋の やまとごゝろを 人とはゞ
「松坂市の本居宣長記念館、そして旧宅の鈴屋に参ってきました。 本居宣長について、門外漢の私などが書くべきことは、何もありません。 厳密で近代的な文献学、国語学、考証学の手法をとりながら、長く、たゆみない努力を続け、「日本」の本質を求め続けた探求者。 国学、文法学、歴史学,神道(学)の源流に位置する学問創始者。 そして、現代でも小林秀雄や西尾幹二のような代表的哲学者に対して知的格闘を迫る思想家・・・・しかし、私は、彼の仕事場を拝しながら、古事記を徹底批判していくことを誓いました。」
(観) シナノに三御子の胞衣を納める(1)
「千曲川のほとり、戸倉上山田温泉の外れの山裾に、「ハベシナ」という、不思議なお名前を持つ神社が鎮座されています。」
(観) シナノに三御子の胞衣を納める(2)
「千曲川のほとり、戸倉上山田温泉外れの「波閇科神社」をご紹介しましたが、そのすぐ近くに、古来有名な「佐良志奈神社」があります。」
(観) シナノに三御子の胞衣を納める(3)
「妻科神社は、長野県庁のすぐ横の高地価住宅街に、濃い欅の緑につつまれて、ひっそりと鎮座しています。そこには、地元の子供たちに名物の長い滑り台がありました。諏訪系の神社なのですが、しかしツマシナという美しいお名前の由来は? .」
(考) シナノに三御子の胞衣を納める(4)
「波閇科、佐良志奈、妻科神社については、文書などが残っておらず、わからないことが多いのですが、もともとは山の上や峠にあったという伝承が目を引きます。」
(ヲ)(考) シナノに三御子の胞衣を納める(5)
「ニニキネ様の三人の御子がお生まれになったときに、ハニシナ、ハヘシナ、サラシナ、ツマシナの代表者がサカオリのミヤに参り、アマテル様と同じように三人の御子の胞衣をおまつりさせて下さい、と頼み込みました。」
(観) 焼亡したスズカのミチ(1)
「三重県鈴鹿市にある片山神社です。 なぜか社殿が焼け落ちていました。民族の衰亡を暗示するかのような光景に立ちすくむ日でした。」
(観) 焼亡したスズカのミチ(2)
「スズカのカミは、鈴鹿峠の峠神でした。峠の突端の絶壁に突き出した、鏡のごとく光る磐座に眠っておられます。ここに眠る女性は、どなたなのでしょうか?」
(考) 焼亡したスズカのミチ(3)
「「スズカ」とは何か? 「スズカヒメ」とは、どなたなのか?片山神社を手がかりに追っていきます。」
(ヲ) 焼亡したスズカのミチ(4)
「スズカのミチは、日本の多くの人々を、未だに意識せずとも導いている生き方でした。 それは生活の倦怠を磨くミチ」
(ヲ) 焼亡したスズカのミチ(5)
「スズカのミチは、農耕生産革命、生産力の拡大、富の増大、社会の全般的組織化、そして貧富の差の拡大と犯罪の激増を治世のさなかに経験したトヨケ様、アマテル様が考え抜いた、不変かつ普遍の哲学ではないかと思います。」
(ヲ) 焼亡したススカのミチ(6)
「最後に、チチヒメ様が鈴鹿峠にお鎮まりになったゆえんを見ていきます。生活のつもり積もったススを磨いて、輝ける地肌を現すススカのミチと、更に根源的な人間の本質理解であるスズカのミチとを重ね合わせる、その焦点に鎮座されるチチヒメ様を拝しながら。」
(観) スマヰの里にハニワなす(1)
「今回は、「相撲神社」という面白い神社に行ってきました。この神社には、社殿がなく、神社境内の中央に土俵があり、土俵の盛り土の四隅には桧の木が植えられています。 横綱大鵬と柏戸が参拝にいらしたとか。」
(観) スマヰの里にハニワなす(2)
「近鉄大阪線の當麻町駅をおりて當麻寺の方に進むと、道の脇に、當麻蹶速を記念したとおぼしき、小さな蹶速塚があります。 生命をかけて天覧相撲を行ったと日本書記に伝えられる勇者は、軽自動車がようよう通っていく小道の脇で、いま何を思っているのでしょうか? 」
(日) スマヰの里にハニワなす(3)
「當麻蹶速と野見宿禰との命をかけた闘いについて、日本書紀の原文に基づいて見ていきます。 日本書紀の記述は、かなり素晴らしいものです。 當麻蹶速のひたぶるな思いはよく伝わってきます。 こういう明晰な文章を誤解するのは近代人だけでしょう。 今回は、日本書紀のよさを味わって下さい。」
(考) スマヰの里にハニワなす(4)
「今回は、関連書籍を洗っていきますが、驚くような情報は得られませんでした。 日本書紀に書かれたような事件と関連する地名などは多数残っていました。 なお、古事記には何の記載もありません。 なぜだ?」
(ヲ) スマヰの里にハニワなす(5)
「ヲシテ文献の記載は、明晰であり、クエハヤさんの深き思いを伝えています。 まるで情景が眼前に見えるかのような、迫真の叙述です。 神事としての相撲の本質を伝える唯一の文献です。 日本書紀の叙述とも格が違います。 相撲のお好きな方、相撲協会の方々は、今回の記事を一読しないといけません」
(ヲ)(日) スマヰの里にハニワなす(6)
「日本書紀とヲシテ文献とを比較すると、日本書紀では細部の欠落が多いように見えます。 また、日本書紀では、中国古典に由来する記載が見えるのに対して、その部分がヲシテ文献からは欠落しています。 ヲシテ文献は、相撲神事の全体像を伝えており、かつ中国古典の影響を読み取れないわけです。 ここは重要です。」
(古) スマヰの里にハニワなす(7)
「古事記には、タエマクエハヤとノミノスクネの物語は記載されていません。しかし、その直前の沙本彦と沙本比 鵑諒・譴涼罎法△燭辰唇豸世世院◆嵶六痢廚箸いΩ斥佞・△蕕錣譴泙后・仝纏・?蓮・ 艝書機λ書ぁ・た死董・ァγトし、その此ψを、その直前にあった関係ない福・に Δの臭いつけのように残したわけです Α 古察Νは ・察κ民族の国史を蓮・でいます ヲラ
(観) スマヰの里にハニワなす(8)
「奈良県橿原、宣化天皇陵の近く、集落の中に、倭彦命の墓所があります。 このあたりは、細々とした民家が密集し、細い路地が続く中に、記紀に書かれたような遺跡があらわれるので、びっくりします」
(現) スマヰの里にハニワなす(9)
「ヲシテ文献には、神武以降に殉死の記載が3箇所あります。 そして、かなり年月が経過してから、ヤマトヒコ様の薨去時に強制殉死の事件が起こります。 ところで、乃木将軍の辞世の句が、ヲシテ文献の記述や思想と酷似しているのです。 私は、身震いするほどの驚きに打たれました−今回は、近代に向かって脱線することを、お許し下さい」 .
(ヲ) スマヰの里にハニワなす(10)
「ヲシテ文献では、神武天皇以降に3件の殉死の記載があり、ヤマトヒコ埋葬時の「強制殉死」事件、そしてイクメイリヒコによる殉死の禁止に至ります。 ヲシテ文献から、殉死の記述をみていきましょう」
(ヲ) スマヰの里にハニワなす(11)
「イクメノキミが殉葬を禁止した後、お妃が亡くなりました。 このとき、ノミノスクネが、埴輪を副葬することを建議します。 殉死の本質を踏まえ、イクメノキミの意図を踏まえ、アメのミチにしたがった建議でした。 この「ハニワ」は、あのタエマクエハヤとの死闘の舞台となった「スマヰの里のハニワ」に対する掛け詞になっています」
(ヲ)(日) スマヰの里にハニワなす(12)
「日本書紀には、ヲシテ文献にあった「殉死」の記載がありません。 ヤマトヒコが崩御したときの「強制殉葬」については、ヲシテ文献とほぼ同一の記述があります。 日本書紀の編纂者は、殉死と殉葬の区別を理解できなかったか、あるいは国史に表現したくなかったと考えることで、説明がつきます。 「殉死」と「殉葬」の区別がつかないのは、帰化人の疑いがあります」
(ヲ)(日) スマヰの里にハニワなす(13)
「野見宿禰と埴輪について、日本書紀とヲシテ文献の記載はほとんど同じですが、一カ所だけ、決定的に異なっています。 そして、その一カ所の相違は、ヲシテ文献の他の部分と深い関連があり,明晰に説明できますが、日本書紀の記述はそうした関連を失っており、説明困難になっています。」
(古) (ヲ)スマヰの里にハニワなす(14)
「古事記では、ノミノスクネ、タエマクエハヤ、イクメイリヒコ、ヤマトヒコ、オイマカリ、スマヰ、ハニ−ワのお話は、全面的にカットされていました。 葬祭、殉死、埴輪、相撲という、神事の中心にかかわる記述を全面的に省いた古事記には、率直に言って疑わしさを感じざるを得ません。」
(ヲ)スマヰの里にハニワなす(15)
「ヲシテ文献の細かい「仮名遣い」そのものから、「殉死」「殉葬」の本質をさらに掘り下げていくことができました。 殉死の発生とその意味および背景、関係者の精神の深み、そして習俗化、形骸化から破綻へ至る歴史経過を、仮名遣いに隠された意味から理解できました。 つまり、ヲシテ文献は、仮名遣い一字一句のレベルまで、厳密に書かれていました。 また、その仮名遣いの緻密さは、内容の精神的高度さは、近世、近代の日本人では理解できなかったレベルのものであることも、端的に示されました。」
(観) 玉を抱く娘さんと子と遊ぶ母
「千葉市蘇我の住宅地にある、一見するとありふれた感じの郷社を訪れたのは、初夏の風薫る一日であった。」
(ヲ)(考) 玉を抱く娘さんと子と遊ぶ母 (2)
「蘇我比(め)神社の主神は「蘇我比(め)大神」ですが、相殿は何と「天照皇大神」です。 この二つのお名前が、2枚の白い垂れ幕に書かれ、社殿の前にぶら下がっている光景を見ました。 この謎を説明できる文献は、ヲシテ文献だけです。」
(観) ツクモの青空の下、神輿をかつぐ(1)
「千葉県一宮市にある玉前神社に行ってきました。9月13日に、九十九里浜の南端で、近隣の神々を集めて馬と神輿の神事が行われます。その秘密を解明してみましょう。」
(考) ツクモの青空の下、神輿をかつぐ(2)
「玉前神社のご祭神として浮上してくる「玉前大神」とは?「玉」に関する伝承は混乱し、極めて古そうな「浜降」神事の由緒もよく解らないらしいのです。 その謎はもうすぐ解けます。」
(考) ツクモの青空の下、神輿をかつぐ(3)
「玉前大神と浜降神事を中心に、現代まで誰も解き得なかった疑問を煮詰めていきます。」
(ヲ) ツクモの青空の下、神輿をかつぐ(4)
「ホノアカリ様が、ヒタカミ(宮城)からナカクニ(近畿)へと大移動されるときに、九十九里浜南端から出航した−その記憶を留める神事なのでした。」
(ヲ) ツクモの青空の下、神輿をかつぐ(5)
「玉前神社のすべての疑問、特に浜降神事は、ホノアカリ様ご一行のツクモからナカクニへの出航ということで説明できました。」
(ヲ) ツクモの青空の下、神輿をかつぐ(6)
「ホノアカリ様のナカクニへの出航は、玉前神社に痕跡をとどめ、ヲシテ文献に明晰に書かれていました。先代旧事本紀には、その「劣化コピー」が残されていました。」
(先) ツクモの青空の下、神輿をかつぐ(7)
「先代旧事本紀は、神が空を飛び、天からヤマトに下りてくるという、超古代SF小説みたいになっていました。その原因は、ただの「誤訳」で説明がつきます。」
(日) ツクモの青空の下、神輿をかつぐ(8)
「日本書紀では、ヲシテ文献の記述も先代旧事本紀の記述も脱落していました。 しかし、「一書」には、その大胆な改変前の断片が、かすかに残されていました。」
(古) ツクモの青空の下、神輿をかつぐ(9)
「玉前神社の祭祀、ヲシテ文献の記載は互いに整合し、先代旧事本紀の記載は劣化し、日本書紀では、全面的な脱落の中に僅かな痕跡をとどめ、古事記において、すべてが虚無に還る。」
(現) 所はいづこ、水師営
「東京の赤坂乃木神社に行ってきました。 桜の花開いた美しい日でした。 桜の花びらがひとひらずつ虚空に舞い落ちるのを凝視していると、なにか時間が止まったかのような眩暈におそわれました。 人の一生も、樹木を離れて地上へと舞い落ちる花びらのように、たまゆらのものであり、その住処はただ一刻の家であり、天に帰ってゆくのでしょうか?」
(観) ミシリツヒコと名を変えて(1)
「今回は、越後国一宮である彌彦神社に参ってきました。 こちらは、越後国開拓の祖神(高倉下命)をお祭しております。 この祖神に越後開拓の詔を発したのは、神武天皇ということになります。 祖神の上陸地、現地に伝えた技術の種類まで事細かに伝承されています。 さらに、祖神は、神武東征に功績があった武人であることも伝承されています。」
(ヲ) ミシリツヒコと名を変えて(2)
「ヲシテ文献には、タカクラシタがタケヒト(日本書紀の神武天皇)のヤマトウチに従い、特別な剣を献上したこと、東征後に紀伊方面の統治を委託されたこと、その後タケヒトの指示でタカクラシタがヤヒコに参り、鎮撫、統治を行い、ヤヒコ カミと呼ばれたことが記載されています。」
(考) ミシリツヒコと名を変えて(3)
「神社は幕府に上申を出して神社の祭神を明晰に弁明しています。
しかし、文献をきちんと良心的に揃える立場をとる吉田博士は、それを疑問視し、日本書紀に記載のある人名を祭神として推定しています。 その推測は錯綜していますが、読み進むうちに博士に対して敬意を抱かざるを得ませんでした。 これに対して、根拠を示すことなく、自然崇拝を発祥とすると述べる現代歴史家・・・・・・サイエンスでは、根拠を示さない学説はありません」
(観) ミシリツヒコと名を変えて(4)
「今回は、奈良県橿原市の「久米御縣神社」、隣接する「久米寺」に行ってきました。 ここは神武天皇が朝廷を開いたときからの由緒の場所ですが、真言宗の名刹、本山とされたのは、そこに神代の霊力が残っていたからなのでしょうか? クメを舞台とした四角関係の物語の中から、国史の本質を掴みだしていきます。」
(ヲ) ミシリツヒコと名を変えて(5)
「タケヒト即位後、タタラ ヰソススヒメをキサキに立てますが、皇子がなかなか産まれませんでした。以前に産まれたタギシミミは世継ぎとされず、宙ぶらりんの扱いだったようです。そこで、クメのイスキヨリ ヒメをオシモにしようとしましたが、キサキが咎めてしまいます。この後、キサキは、おそらく必死の思いで二人の皇子をの生みになります。このとき、タカクラシタ(ヤヒコ カミ)がミヤに上ってきたのですが、タケヒトは、スキヨリ ヒメをタカクラシタに嫁がせてしまいました。 これらのすべてのお話が、タケヒト死後の大事件への伏線として張りめぐらされております」
(ヲ) ミシリツヒコと名を変えて(6)
「タケヒトは、皇子を儲けようとして、イスキヨリ ヒメに単刀直入なウタを送り、お召しになりました。 その後、おそらくイスキヨリ ヒメは后の咎めを受け、日陰の立場に追いやられたようです。 そして、タギシミミがヒメに恋い焦がれてしまい、父親のクメに仲介を頼みました。 このお話の背後には、スヘラギの地位の継承という問題が通奏低音のように鳴り響いていることが、ヲシテの原文から読み取れます」
(ヲ) ミシリツヒコと名を変えて(7)
「イスキヨリ ヒメは、タギシミミに娶られることで、アメノミチが乱れ、秩序が失われ、皇室の権威が失われ、人々の暮らしが損なわれることを恐れたのに違いありません。 だからこその、強烈な拒絶であり、「切断」であったのです。 それは女性としての個人の幸福を超えた人々のためのもの−それを立てないわけにはおかない−そういう強烈な意思です。 だからこそ、それは「アメ ニ トホル」ものであったと、当時の人々が考え、記録したのに違いない−ヲシテの原文からは、そう解釈することが可能です」
(ヲ) ミシリツヒコと名を変えて(8)
「イスキヨリ ヒメが父親に対してミサホ ツズウタを詠み、タギシミミの求愛を拒絶しました。 タギシミミは、技巧を凝らした返し歌を詠みますが、ついにあきらめて帰ります。 一部始終を知ったクシミカタマはタケヒトに諫言をし、タケヒトはイスキヨリ ヒメを遠ざけます。 クシミカタマの諫言は、親子のシムの汚れを警告するものであり、大きな歴史の流れを踏まえたものでした。 イスキヨリ ヒメの求愛拒絶は、操を立てたというような単純なものではなく、人々のために統治のミチを立てた本質的なものでした。」
(観)ミシリツヒコと名を変えて(9)
「 奈良県にある「多坐弥志理都比古神社」に行ってきました。 祭神は、神武天皇・神八井耳命・神沼河耳命・姫御神・太安万侶と、オールスターキャストです。 摂社には、古事記の編纂者である、あの太安万侶が祭られております。 また、近くには、「皇子神命」という由来不明な祭神を祭る皇子神神社があります。 この神社は、古代、そして古事記の鍵を握る神社に違いありません。 「真名の日本巡礼」が、その謎を明らかにします。」
(考) ミシリツヒコと名を変えて(10)
「多坐弥志理都比古神社の祭神は、一ノ宮 神八井耳命(身知津彦)、二ノ宮 神沼河耳命でよいようであり、古事記、日本書紀とも整合しています。一方、皇子神命神社は「三ノ宮」にあたるようであり、「神武の三人目の皇子」をお祭りしていると想定できます。しかし、「多神宮注進状 草案」では、瓊々杵尊ということになっていますが、なぜここに瓊々杵尊が出てくるのかわかりません。謎は深まったというべきでしょう」
(ヲ) ミシリツヒコと名を変えて(11)
「タギシミミは皇位継承から外されていました。 イスキヨリ ヒメの事件の後、カンヤヰミミとカヌナカワミミの兄弟が順に誕生しますが、兄のカンヤヰミミは、皇位を暗示する名前をいただいています。 しかし、タケヒト(神武)は、最終的に、後継者を弟の方のカヌナカワミミと定めます。 カヌナカワミミの立太子、そして補佐体制の構築を終え、皇位継承を不動のものとし、タケヒトは崩御します。」
(ヲ) ミシリツヒコと名を変えて(12)
「アビラツヒメとクシミカタマは、崩御したタケヒトに、まるで生きているかのようにお仕えします。 母とは対照的に、タギシミミは、タケヒトの遺言を踏みにじる行動を続けますが、皇位継承者であるカヌナカワミミは静観します。 そして、タギシミミは,ついにカヌナカワミミ、カンヤヰミミ兄弟の謀殺を計画し、因縁深いサユガワに兄弟を招待します。 タギシミミは、恐るべきみな殺しの陰謀を企んでいたように読めます」
(ヲ) ミシリツヒコと名を変えて(13)
「ヰソススヒメが二人の皇子に送った警告の歌には、三重の意味が隠されていました。 一見すると自然鑑賞の歌に見えますが、実は黒雲が不穏な風を吹かせようとしていることを暗示しており、しかもタギシミミが陰謀の網を張って待っていることまで詠み込んでいるようです。 歌の表と裏の意味を読み解いたカヌナカワミミは、ついにタギシミミに処分を下すことを決断し、それをカンヤヰミミに告げます」
(ヲ) ミシリツヒコと名を変えて(14)
「カヌナカワミミとカンヤヰミミは、タギシミミを戦いの末に殺してしまいます。 カンヤヰミミは、その地にタギシミミを葬り、ミシリツヒコと名を変え、タギシミミを「ミコ ノ カミ」として、誠心誠意、お祭りしました。 それはタギシミミのタマをアモトに返すお祭のようです。 ミシリツヒコとは、カンヤヰミミが、身の程を知ったこと、臣籍に降下したこと、一部始終を見て知ったことを意味しており、つまり三重の意味を持っているようです。 多坐弥志理都比古神社の祭神は、神八井耳命(身知津彦)、神沼河耳命であり、皇子神命神社の祭神は、「ミコノカミ」、つまりタギシミミであることが明らかになりました」
(ヲ) ミシリツヒコと名を変えて(15)
「カヌナカワミミはスベラギとして即位し、カンヤヰミミはタギシミミの祭を続けます。 アビラツヒメとクシミカタマは、タケヒトのオモムロにつきそい、語りかけ、そして殉死します。 アビラツヒメは、タケヒトを鎮魂するのとともに、不肖の息子であるタギシミミのために、殉死したのではないかと思われます。 そこには、閥族が、スベラギの地位をめぐる争いに介入することに対する、厳重な制止を読み取ることができます。 カンヤヰミミは、ついにカミアガリし、ミシリツヒコのカミとなって、いまも十市の地に、タギシミミのお近くに鎮座しています・・・・ここに、日本を、見つけました」
(日)(ヲ) ミシリツヒコと名を変えて(16)
「日本書紀では、そもそもイスキヨリヒメ(サユリヒメ、ユリヒメ)、タカクラシタが、ストーリー内に登場しません。アビラツヒメ、タギシミミ、タタラ イソススヒメ、カヌナカワミミ、カンヤヰミミは登場しますが、その人間関係、および日嗣をめぐる事情は、一切、わかりません。イホヒトという、タギシミミを牽制する目的のイミナまで記載がないので、出産時においてタギシミミよりもカンヤヰミミに優先的に皇位継承権があったこともわかりません。 カンヤヰミミとカヌナカワミミとの出産時点における皇位継承順序もわかりません。 タカクラシタの位置、そしてユリヒメをタカクラシタに嫁がせてタギシミミから遠ざけたことも記載がありません。 そして、タカクラシタと弥彦神社の種々の伝承との一致も、日本書紀からは説明できません。」
(日)(ヲ) ミシリツヒコと名を変えて(17)
「日本書紀においては、神武天皇の崩御、神渟名川耳尊立太子、即位の記述は、神武天皇による次世代体制固めの記述を全面的に欠いており、手研耳の反乱への伏線もありません。また、神武天皇の葬送は、天皇即位の前であるかのように読める位置におかれており、この後の手研耳命との主導権争いの記述があいまいになっています。神渟名川耳天皇のプロフィール紹介は、多くが中国史書からの直接の引用であり、しかも日本書紀の天武記、垂仁記と同様の表現をコピーして使い回しているため、実態の疑わしいものです。そのような部分は、ホツマツタヱには対応部分がありません。」
(日)(ヲ) ミシリツヒコと名を変えて(18)
「神武天皇崩御後の手研耳の専横について、ホツマツタヱには詳細な記述があり、「ヒトリ マツリオ トラントス」と締めくくっています。 日本書紀は、「「遂以諒闇之際 威福自由」と表現していますが、尚書(洪範)由来の表現であって文脈に整合していません。 「ヒトリ マツリオ トラントス」は、漢籍の表現を「迂回」しているのです。 また、日本書紀の「苞藏禍心, 圖害二弟」のうち、「苞藏禍心」は漢籍由来の表現ですが、ホツマツタヱは「害二弟」は対応しつつ、漢籍由来の「苞藏禍心」のみを「迂回」しています。この「迂回」もホツマツタヱ先行説を示唆します。」
(日)(ヲ) ミシリツヒコと名を変えて(19)
「カヌナカワミミ、カンヤヰミミ、タギシミミの戦いの場面について、日本書紀とホツマツタヱとを比較します。 ホツマツタヱの記述は一貫して緻密であり、破綻を見せません。 日本書紀の記述は、襲撃の背景の記述はきわめて簡単であり、背景を理解できないようなものですが、実際の襲撃直前の場面から、突然、詳細になります。 これは明らかに日本書紀編纂者の「編集」によるものです。 この詳細な記載部分だけは、ホツマツタヱの記載と一致してきます。 そこで、この一致部分について、いずれが先行するのかを考察していきます。」
(日)(ヲ) ミシリツヒコと名を変えて(20)
「日本書紀とホツマツタヱとの記述は「直訳」が続くのですが、最後の場面になって相違点が現れます。 日本書紀では、神八井耳は、日嗣皇子の位を神渟名川耳に譲ることを承諾し、自分は神祇の道に入ります。 ところが、日本書紀の神武紀の終わりでは、神渟名川耳が立太子し、それからずっと後で神武天皇が崩御しています。 その後に、手研耳の誅殺があるわけです。 神渟名川耳は、神八井耳に譲って貰った日嗣皇子の位を、なぜ神武天皇崩御のずっと前からもっていたのでしょうか? これについての国学、そして現代史家の説は、根拠が提示されていません。」
(日)(ヲ) ミシリツヒコと名を変えて(21)
「ホツマツタヱの記述から、タギシミミの処遇、カンヤヰミミの出征時の名前、イホノトミ、ミシリツヒコ」への改名とお祭りといった、肝心の部分を「翻訳漏れ」したと仮定しますと、日本書紀の記述は簡単に再現できます。 そして、翻訳漏れの結果、日本書紀では、手研耳の処遇は不明となり、カンヤヰミミが日嗣の位を譲ったようにしか読めない記載になってしまいました。皇子神命神社の意味も不明となり、多坐弥志理都比古神社の意味も不明となってしまいました。 日本書紀の文章に致命的な結果的に矛盾がある理由を、「翻訳漏れの放置」だけから、合理的に説明できます。 このような文脈的な説明が可能であることは、ホツマツタヱの先行性を示すと考えることが合理的です。」
(古)(ヲ) ミシリツヒコと名を変えて(22)
「古事記では、神武天皇が日向で阿比良姫を娶り、多藝志美美、岐須美美の二人を出産したことになっています。 しかし、日本書紀では兄弟三人と明記されているので、岐須美美の存在は否定されています。 ホツマツタヱの記述は日本書紀と同じであり、岐須美美は登場しません。 古事記の岐須美美は、神武天皇の第二子であるにもかかわらず、なぜか二度と登場することはなく、「消息不明」となっており、不自然です。」
(古)(ヲ) ミシリツヒコと名を変えて(23)
「古事記と日本書紀とは、神武天皇の正妃の名前がぜんぜん違う上、阿比良姫のお子さまの人数が違っており、伊須氣余理姫(蹈備五十鈴媛)のお子さまの数も違っています。特に、正后の「第一子」である「日子八井」が古事記に記載され、日本書紀に記載されていません。朝廷の始祖である神武天皇の后およびご子息について多大な相違がある以上、正式な国史の方を疑う理由がわかりません。 「新撰姓氏録」などの古系図類や、多氏関係の神社の祭神も、日本書紀を支持しており、古事記の記述を否定しています。 ホツマツタヱの記述は妥当であり、日本書紀では説明不可能な事項を説明してくれます。」
(古)(日)(ヲ) ミシリツヒコと名を変えて(24)
「古事記では、「姫多多良伊須氣余理姫」は、神武天皇のお妃です。 非常に奇妙な人物として描写されています。 三嶋湟咋の娘である勢夜陀多良姫が綺麗だったので、美和の大物主が気に入って、姫が便所に入ってウンコをするときに、大物主が丹塗矢に化けて、廁の下にある、ウンコを流す溝を流れ下って、お姫さまのオマンコを突いたそうです。 そして神武天皇のお妃がお生まれになりました。 このエロ・ヨタ話に古代人の大らかさを読み取ろうとする説がありますが、日本書紀と比較する限り、渡来人の陰影ある精神を示すものかもしれません」
(古)(日) ミシリツヒコと名を変えて(25)
「古事記に記載された姫多多良伊須氣余理姫の説話は、(1) 丹塗矢型の神婚説話 (2) 倭跡跡日百襲命と大物主の神婚説話 (3) 便所関係の説話に分割できます。 そして、(3)女陰を突かれた勢夜陀多良姫に「伊須須岐(イススキ)」と叫ばせることで、(3)便所説話から富登 多多良伊須須岐姫という名前を創作しています。 しかも、このお名前はみっともないからということで、改名までさせる始末であり、その上、日本書紀に明記されたお名前と半分違っています。神武天皇のお妃のお名前を、ここまで徹底的にもて遊んだ古事記には疑わしさを覚えます。」
(古)(日) ミシリツヒコと名を変えて(26)
「古事記で、神武天皇が姫 多多良 伊須氣余理姫を娶った経緯を取り上げます。 まず神武天皇の求婚歌ですが、なぜか大久米命が歌を横どりしています。 また、伊須氣余理姫に対してなんだか失礼な記述もあります。 伊須氣余理姫の返歌は白痴的でデタラメだし、大久米命はなぜか姫を口説き始めるありさまです。 この短い文章の中に多数の混乱と錯乱が詰め込まれており、誰も説明できていませんが、真名の日本巡礼で説明されていきます」
(古)(日) ミシリツヒコと名を変えて(27)
「神武天皇は、佐韋河のほとりにあった伊須氣余理姫のところに通い、契りを結ばれました。 高佐士野の話は、ひどく混乱しています。 佐韋河の実家での話は、破綻は見られませんし、高佐士野の話とは独立しているようです。 佐韋河の実家での話が中心のストーリーであり、高佐士野のお話は民間伝承的な付け足しのようです。 しかし、神武天皇の最後の歌はなぜか過去の回想の歌になっていますか、求婚歌に見えます。 高佐士野の話を前にくっつけたので、佐韋河の実家での話を削り、神武天皇の求婚歌を回想歌に回したのではないでしょうか?」
(古)(ヲ) ミシリツヒコと名を変えて(28)
「ヲシテ文献におけるタカクラシタ関係の説話、タギシミミ関係の説話は、イスキヨリヒメ説話の背景をなすものですが,古事記にありません。 伊須氣余理姫に対する神武天皇の高佐士野での求婚説話は、ヲシテ文献、日本書紀に対応記載がありません。 ここは明らかに民間伝承の流入と見られる箇所です。 イスキヨリ ヒメがサを失ってユリヒメに名前を変えた件も古事記に記載されていません。 狭井川ほとりでの神武天皇と伊須氣余理姫との婚姻説話は、ホツマツタヱにも記載されています。 しかし、古事記には、「サキニ サユリノ ハナミ トテ」という、最重要の一句がなく、ホツマツタヱにある膨大な情報と前後の照応を読み取れなくなっているという「事実」があります。」
(古)(ヲ) ミシリツヒコと名を変えて(29)
「古事記には、「ユリ」という言葉が伊須氣余理比賣に関連してでてきますが、単なる地名説明でした。 ホツマツタヱにある「サユリ」という言葉は、説話の全体を統合する支点として機能する緻密さをもっています。 また、古事記で神武天皇が伊須氣余理比賣に対して詠んだ歌は、初夜の回想の歌でした。 ホツマツタヱでタケヒトがイスキヨリヒメに対して詠んだ歌は、クメガ ヤでの求婚の歌でした。 僅か一文字の違いで、同じ歌が回想の歌になったり、求婚の歌になったりしています。 歌の内容と調べは、明らかに求婚にふさわしいものであり、ホツマツタヱの記述は一貫しています。 古事記の記述は不自然ですが、高佐士野のエピソードの付け足しによって、歌が最後に回されたということで説明がつきます。」
(古)(ヲ) ミシリツヒコと名を変えて(30)
「古事記における大久米命と伊須氣余理姫との歌のやりとりの場面です。ホツマツタヱの歌は、背景記述と完璧に整合し、一文字単位で正確に解釈でき、19音の「ツズウタ」「回り歌」という伝統に合致し、「ルドメ」「サケルドメ」の意味を正確に解釈できます。 古事記の歌は、意味不明であり,妥当な解釈を拒絶しており、歌の背景記述と矛盾し,特に神武天皇の求婚に回答していない幼稚なものです。 ホツマツタヱの歌から3文字の脱落変形で古事記の歌を説明できますが、古事記の歌からホツマツタヱの歌を復元することは想定できないようです。」
(古)(ヲ) ミシリツヒコと名を変えて(31)
「大久米命の最後の歌を取り上げました。古事記では、歌の内容が姫への回答になっていないし、場面とも、文脈とも、状況とも食い違っており、大久米命は大馬鹿者にされてしまっています。その直後の姫の回答は文脈上唐突です。 ホツマツタヱでは、タギシミミの歌は、1文字単位で明晰に理解可能であり、前後の文脈と整合し、ツズウタ、回り歌の記述も整合します。 タギシミミの歌の「サケルドメ」には、三重の意味が与えられており、いずれの解釈も状況と整合します。 事件の後始末が詳細に語られており、自然です。 この対比から浮かび上がる古事記の記述の混乱と幼稚さを、直視しましょう。」
(古)(ヲ) ミシリツヒコと名を変えて(32)
「古事記では、當藝志美美命が、神武天皇の后であった伊須氣余理姫を娶っています。 しかし、古事記には、その伏線もなく、フォローや後日談も一切ありません。 しかも、當藝志美美命は、この次の文章で、伊須氣余理姫の三人の弟を殺そうとしており、無茶苦茶に不自然です。 ホツマツタヱと比較してみると、次の仮説が成立します。 古事記では、タギシミミのイスキヨリヒメへの求婚を神武天皇の求婚に書き換えたために無茶苦茶な記述になってしまったこと、タギシミミの求婚をカットした代わりに一文だけ痕跡を残しておいたこと、そのついでに伊須氣余理姫の名誉も汚しておくことができたというわけです。 こういうやり方は、古事記では珍しいことではなく、例えば相撲も似たような不敬な扱いをしています。 これは古事記作者の本質を表しているようです。」
(現) 靖國神社のみたま祭り
「みたま祭りに行ってきました。この神々は、もしかすると、「国の鎮守」としての神格を取得しつつあるのではないか? 神話の時代は去ってはいないのではないか?そのような思いにひたった、夏の巡礼の一日でした。」